青函連絡船の歴史

1908年に国鉄直営連絡船が開設

国鉄青函連絡船は、1908(明治41)年3月7日、比羅夫丸の就航ではじまりました。このころ、青森-函館間には、日本郵船も定期航路を開設していましたが、しばらくして営業をやめています。

比羅夫丸、田村丸は青森-函館間を4~5時間で結び、たいへん好評でしたが、大型船の着ける桟橋はまだなく、小蒸気船やはしけで乗り移っていました。

車両航送はじまる

北海道開拓事業の本格化とともに、青函連絡船も輸送力増強が望まれ、1924(大正13)年に、船に直接貨車を積み込む車両航送船、翔鳳丸が就航しました。そして、岸壁や駅の施設、車両の準備が整った、翌1925(大正14)年8月1日から車両航送が開始されました。

車両航送の効果は絶大で、積み下ろし時間が大幅に短縮されたため、北海道の水産物が関東・北陸まで運ばれるようになり、流通革命と呼ばれました。

戦争末期の空襲で全滅

その後、戦時体制となり、大量の物資を運ぶため、ぞくぞくと車両航送船がつくられましたが、太平洋戦争ももう終わろうという1945(昭和20)年7月にアメリカ軍の空襲を受け、12隻のうち客船4隻、貨物船6隻を失い、翌8月にもふたたび攻撃され、ほとんど全滅状態になりました。

洞爺丸台風で5隻の連絡船が沈没

戦争が終わって、1947(昭和22)年、洞爺丸が航路復興をめざして、豪華な客室で就航。しかし、洞爺丸は1954(昭和29)年に台風15号の予測をこす猛威を受け、貨物船4隻とともに沈没してしまいました。

海の新幹線・津軽丸登場

洞爺丸事故を契機に最新の装備をもつ船への取り替えが計画され、1964(昭和39)年に第一号の津軽丸(2代目)が就航。つづいて姉妹船6隻、新造貨物船6隻が就航して、輸送能力は航路開設以来、最大となりました。

しかし、貨物は1971(昭和46)年、旅客は1973(昭和48)年をピークに減少。旅客輸送の主役はだんだん航空機に移りました。

トンネルに役目をゆずって廃止

そして、1988(昭和63)年3月13日、旅客 161,127,982 人、貨物 246,976,302トン 輸送の実績を残し、青函トンネルにバトンタッチして、青函連絡船は80年の歴史の幕を閉じました。