青函連絡船について

鉄道と鉄道を結ぶ

青函連絡船は、日本にあった鉄道連絡船のひとつで、その名のとおり本州の青森と北海道の函館を結んで結んでいました。

鉄道連絡船は、海や川など、線路が敷けないところを船で連絡するもので、列車と連携して、効率のよい輸送を行います。トンネルや橋ができて、日本ではなくなってしまいましたが、外国ではまだ活躍しています。

青函連絡船が開設されたときは、北海道の開拓事業が本格化していた時期で、多くの機材、食料が本州から北海道へ運ばれました。また、北海道からもコンブや塩干魚などの海産物、タマネギ、ジャガイモなどの農作物、紙・パルプ等が本州に運ばれました。

大正時代末期にはじめられた貨物を貨車ごと運ぶ車両航送は、北海道と本州の物流に大変革をもたらしました。その後も、石炭や鉱石などのバラ積み貨物を除いて、本州と北海道との間の輸送を一手に引き受け、北海道、日本の発展に大きな役割を果たしました。

そして、航空機や自動車フェリーが一般化するまで、修学旅行や就職のため本州にわたるとき、本州から北海道へ旅行するときにも、かならず利用したので、青函連絡船はたくさんの人びとの心に、なつかしい思い出として残っています。

船の中に線路が敷いてある

青函連絡船の特長は、船の中に線路を敷き、貨車を直接積み込む構造になっていることです。摩周丸(津軽丸型連絡船)は、客室の下にある車両甲板にワム型貨車(15トン積み有蓋車)を48両(東北本線の貨物列車1編成分)積むことができました。1924(大正13)年に就航した翔鳳丸以降、青函連絡船として建造された船は、すべて車両航送船です。

貨物だけでなく、手荷物・小荷物は荷物車に載せ、郵便物は郵便車に積んで航送しました。おしまいのころは乗用車、オートバイ、自転車も載せました。

乗組員の仕事

連絡船の乗組員は、甲板部、機関部、通信部、事務部の4つの部署で構成されていました。

甲板部は操船の担当で、操舵室(船橋)で船長が指揮をとり、航海士、甲板部船員が補佐して、船の操縦と安全の確保にあたります。

機関部はエンジンの担当で、機関長の指揮のもと、機関士、機関部船員が制御、監視、整備を行います。

通信部には通信長と通信士がいて、無線通信室で、いろいろな情報の収集と通信にあたります。

事務部は客室の担当で、事務長以下、事務部船員が旅客の誘導、応対、案内を行います。