青函連絡船は電車を積んで走ったのですか?

青函連絡船は、お客さんを乗せた電車を積んで走ったことはありません。

そもそも、当時(現在もほぼ同じ)、函館本線の函館-小樽間や、室蘭本線の長万部-東室蘭間は電化されていないので、積んでいっても電車は走ることができません。

青函連絡船が運んだのは、貨車です。

この、船の中に線路を敷き、貨物を貨車ごと積んで走る方式を「車両航送」、または「貨車航送」と呼びます。

貨物は自分で乗り換えてくれないので、貨車ごと積み込むことにしたわけですが、人間(お客さん)はいったん駅で降りて、歩いて乗り換えてもらっていました。

摩周丸など津軽丸型連絡船は、ワム(15トン積み有蓋車)換算で48両(東北本線の貨物列車1編成分)を積むことができました。

もちろん客車も運べ、一時期、寝台車を積んで走ったこともあります。客車の仲間である荷物車や郵便車も運びました。また、本州でつくった電車や機関車を北海道へ回送したり、逆に北海道から本州へ運んだこともあります。

1924(大正13)年の翔鳳丸以降、青函連絡船として建造された船は、すべて車両航送船です。

車両航送の効果は絶大で、輸送力が飛躍的に増大しただけでなく、輸送経費は節減、貨物の損傷・誤積・海中落失などの事故もほぼゼロになり、また、積みおろし時間の短縮で貨物の輸送距離が拡大、北海道の鮮魚類が翌日までに関東・北陸まで運ばれるようになり、道内の水産業に大影響を与えました。